公開: 2021年4月25日
更新: 2021年5月14日
明治維新、日本政府は、江戸時代までの地方行政の主体であった藩を廃止して、中央政府が主体となって国民を統治するための県を中心とした地方行政を採用した。この地方行政の実施責任者として、各県に県令が任命され、着任した。県令は、内務省が任命した。また、各県における地方行政の詳細は、内務省からの通達によって実施方法が通知されたのである。各県庁は、その県に属している市、町、村などの役場に対して、内務省からの通達に基づく業務の遂行を指示する立場にあった。このようにして、全ての地方行政に必要な指示は、政府から県、県から役場へと通知される、中央集権的な体制が整備されていた。
1945年8月にポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した大日本帝国に対して、連合軍総司令部は、この大日本帝国憲法に基づいた中央集権的な地方行政のやり方を廃し、各地域が自主的に地域の開発計画を立案できる地方議会を設け、さらに地方行政の責任者として、市長や町長を選挙によって決定し、県政も選挙で選ばれた県知事によって実施する地方自治法を、米国の州政府をモデルにして制定させた。
しかし、廃藩置県から100年ほどが経っており、日本国民に地方自治の経験が消失していたため、連合軍総司令部が考えたような地方自治は、日本社会には根付かなかった。各県の行政を担当する県職員は、大日本帝国憲法下での地方行政を担当してきた人々で、地方自治がどのようなものであるかを知らなかった。内務省に代わって、地方行政を監督する立場に立った自治省でも、職員の多くは内務省の官僚だった人々であり、地方自治をどう監督すべきかは知らなかった。
その結果、各県の県庁には、自治省から出向した官僚が数多く働くことになった。それは、県行政の責任者である県知事にも該当し、県知事の多くは、自治省の元官僚が就任する例も多かった。まれに、元藩主の家系にある子孫が、その地域の名士として県知事に就任する例も見られた。